2008-07-27

新島襄の生家へ

 同志社大学の創立者でもあり、上毛カルタでは「平和の使い」でもある「新島襄」先生の生家に行ってきました。

 場所は安中の方はお馴染みでしょうが、新邸(新屋敷)にあります。
 旧道からかなり奥まった場所にあるので普段通る場所ではありませんが、それでもこの前はこれまでも数度通ったことはあります。けれども、実際に中に入るのは初めてです。
 (ここに常駐している説明員の方のお話ですと見学者の大半は市外の方、特に県外からの方が多いということでした。同志社大学の卒業生(在校生)やキリスト教信者の方が多数というお話でした。)

 生家が実際にあった場所はここから東へ30,40m行った先だったそうで、今の場所へは移築したそうですが、建物自体(一部、補強、改築)は当時のものだそうです。二軒長屋で右側が新島襄の家で当時のまま、けれど左は資料室へと変更されてました。(^^;


 写真の奥の方に見えるこの方が説明員です。
 この日はまったく見学者がなかったそうで、「暇で暇で仕方ない…」とおしゃってました。なので、てぐすねひいてくりまんじゅうを待ち構えてました。(^^;

 開館はAM9:00からPM4:30まで。休館日は月曜日(条件あり)。観覧料は無料です。


 本音をいうとまずは外の景色などを写真に撮りたかったのですが、「中へどうぞ!中へどうぞ!」とスリッパを用意して手招きしてくださるので、気の弱いくりまんじゅうは(笑)下の1枚だけを撮って屋内に入らざるを得ませんでした。


 まずは資料室へ通され、新島襄の人生やその沿革を説明していただきました。

 では、折角ですから新島襄のお勉強会!
 (ちなみに文章と写真は関連しません。読みたくない人は写真だけ眺めてください^^;また、屋内は説明員の方が傍にずっと付き添って下さっていたので、その話を聞いていたために…殆ど写せませんでした。^^;)


 同志社大学の創立者である新島襄(1843-90)は1843(天保14)年、安中藩の江戸詰め下級武士の長男として生ました。誕生が1843年ということですから、165年前ですね。


 彼は国家の改革者、日本の近代化の先導者にならんとして、21歳の若さで1864(元治元)年、函館から貨物船にて密航を企て、上海で船を乗り換え、翌年アメリカのボストンに着いたそうです。
 「英語は出来たのですか?」と説明員の方にお聞きしたところ、「最初はカタコト程度だったらしいですが、英語は船内で勉強したそうです。アメリカにつく頃にはペラペラだったらしいですよ」というお話でした。日本からアメリカに着くまで丸一年掛かったそうです。
 それにしても、150年近く前にアメリカに行くというのは、今の感覚だったら「宇宙」に行くくらい遠かったのでしょうね。


 ちなみに新島襄の「襄」は本名ではなく「七五三太(しめた)」というのが本名だそうです。
 この名前は、祖父が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた!」と言った事から命名されたというお話でした。
 (昔はよくある話ですね。くりまんじゅうの祖父は「留吉」ですが、もうこれ以上子供はいらない!もうこれで終わり!ということで「とめきち」になったそうです…実に悲しい名前です…(笑))


 けれど、「しめた」は米国人には言い難かったらしく、渡米中の船内での彼の愛称は「JOE(ジョー)」と呼ばれたそうです。なので、帰国後もその愛称を漢字に当てて「襄」としたと言われています。

 (そんな話を聞きながら、もし「くりまんじゅう」だったら、なんて呼ばれるのだろう?なんて馬鹿なことを考えていました。ひょっとして「クリントン」…って、それは、苗字だろう!)


 彼はフィリップス・アカデミー在学中に洗礼を受けてニューイングランドのピューリタンの仲間入りをし、アカデミーの卒業後はアーモスト大学で学び、キリスト教の宣教師として帰国することを考え、さらにアンドーヴァー神学校でニューイングランド神学を学んだといいます。


 アーモスト大学では、「青年よ!大志を抱け!」で有名な後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)から化学の授業を受けていたというお話も聞きました。


 当時は死罪にもあたる国禁を犯しての密航、けれど、その運命を大きく変えたのが、1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会ったことだったそうです。
 新島襄の卓越した語学力に目をつけた木戸孝允は、1872年4月16日から翌年1月にかけて、自分付けの通訳として使節団に参加させました。お話を聞いていると幕末から明治の著名人が続々と出てきます。


 そして、新島襄は使節団に参加する形で、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ね、その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集したといいます。


 日本への帰国は1874年11月。まずは安中へ向かい、両親と10年振りに再会。
 安中の龍昌寺、旧安中城内(現在の日本基督教団安中教会敷地)、便覧舎(クリスチャン実業家の湯浅冶郎氏が作った図書館)等で講演会を開きました。


 旧主家(安中藩主)の板倉氏が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があり、1875年(明治8年)11月29日、親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松邸)の半部を借りれたので、それを校舎として、京都府知事槇村正直、府顧問山本覚馬の賛同も得て、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任します。
 (この辺は…特に固有名詞などはまったくのうる憶えだったのでネットで検索しました^^;)


 同じ志を持つもので作る学校ということで「同志社」という何したという話も伺いました。


 ちなみに、開校時の教員は新島襄とJ.D.デイヴィスという方の2人だけ。もっと生徒もたった8人であったそうです。またこの時の縁で、翌年1月、山本覚馬の妹・八重と結婚したそうです。
 実際、この八重さんも大した人物だったそうで、会津若松に生まれ育ち、娘時代は戊辰戦争では婦人隊として洋式銃を執って戦い抜いたご婦人です。そして、襄の死後は社会福祉活動につくしたそうです。


 新島襄は教育者としては大隈重信とも親交があり、今日、同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)制度があるのはそのためだそうです。


 当時は天皇制絶対主義国家体制の確立と、臣民教育やキリスト教排撃運動といった時代風潮であり、キリスト教精神に則った私大学設立には逆風だったそうです。
 そんな中、1888年11月、『同志社大学設立ノ旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、キリスト教主義教育を唱える私立大学設立運動を始めます。
 しかし、1890年1月23日、同志社設立運動中に群馬県の前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館百足屋で、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去してしまいます。
 新島襄は大学設立を目前にし、志半ばにして倒れてしまったのです。
 享年46歳11ヶ月だったそうです。若いですね。(くりまんじゅうと殆ど同じ歳です…)


 同年1月27日13時より、同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、東山若王子山頂に葬られました。 その墓碑銘はなんと勝海舟の筆だそうです。

 物凄い早足でしたが、以上でお勉強会は終わりです。(間違いがあったらお許しあれ!)

 では、最後にど定番のこの構図で…


これにて「新島襄の生家へ」は終了です。

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 なお、色々とお話を伺っていたら、説明員の方はくりまんじゅうの父親と同級生の方でした。シルバーで説明員をされているそうです。いやあ、世間は狭いです。 余分なことを云わなくて良かったです。

2 件のコメント:

  1. 日本一小さなバス会社の唯一のガイド2010年5月27日 14:31

    とてもわかりやすくお人柄が出るわかりやすいおしゃべりについつい読み威ってしまいました。(フムフム)
    何がすばらしいって鮮やかな色彩とアングルタッチ 思わずプロの写真家と思い込んでおります。
    ぜひたずねて見たくなりました。ありがとうございました。

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  2. 日本一小さなバス会社の唯一のガイドさん、こんにちわ。
    ようこそいらっしゃいました。そして、コメントをありがとうございます。

    「新島襄の生家かぁ・・・そう言えば行ったなぁ…」と思いながら、ふと記事の日付を見たら、2008年7月28日(実際に訪ねたのは7月4日)ですから、もう2年近く前になるのですね。^^;
    いやぁ、月日が過ぎるのは早いものです。

    プロの写真家などとんでもありません。
    特にこの頃はカメラど初心者みたいなものでした。
    2007年の暮れに奇跡のパチンコ勝利で「なにかモノに換えておかなくては!」と思わずデジイチ買って、まだ半年ってな頃です。
    試行錯誤…の繰り返し。
    でも、思い返せばこの頃が撮るのが一番楽しかった頃かもしれませんね。マンネリのマの字もまだない頃でしたし…

    是非、新島襄の生家、行ってみてください。
    暇だぁ~と言ってる説明員の方が、手薬煉引いてお待ちしております。(笑)

    今後ともよろしくです。^^

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